ハッカーと研究者と禅
執筆:2025年8月1日
はじめに
大学から情報という分野に飛び込んで、研究者だったりハッカー * に刺激されてきました。彼らの文化や慣習にも興味がでてきて、それに関する本を読むようにもなりました。そんな中で、たまたまその時、興味のあった仏教(特に禅宗)との共通点を薄ら薄ら感じるようになり、彼らに共通する生き方の魅力とか考え方の魅力に惹かれてきました。自分の気づき・考えをここにまとめたいと思います。
* 広義のソフトウェアハッカーであり、悪いことをするクラッカーを指しません。
修証一等
仏教では、基本的に悟りを開くことを目的として手段(修行)がありますが、曹洞宗は少し気色が違います。『高校倫理』では坐禅について以下のように記しています。
“座禅の修行は悟りにいたる手段ではなく、修行(修)にうちこむことそのものが悟り(証)の体得にほかならなかったのである(修証一等)”また、『日本仏教がわかる本』では曹洞宗の座禅の説明として、このように記述されています。
”座禅をするときは、何も考えず黙々と座禅するのみで、悟りすら求めないというものです。”つまり曹洞宗では、「目的と手段の区別はない」ものとしているのです。私たちは目的を達成するために手段を選択し、手段についてよく吟味したりします。その2つの事柄は明確に分られることが多いですし、「目的を大きく持って、手段は詳細に確実に」が良いとされている風習を自分はよく感じます。修証一等の考えはこれとは違います。イメージするのは少し難しいので、具体例を書きましょう。例えば、受験する学生がいたとします。彼は試験で良い点数を取るという目標を設定し、その手段として参考書を購入し勉強するのです。曹洞宗の教えでは、良い点数をとるという目標と勉強するという手段を区別してはいけないとしています。これは、勉強することそのものが目的でもあるということを意味しています。受験数学が楽しくなったあの感覚はこれに近いのだと思います。また『科学者という仕事』には、科学研究にも同じような側面があることを記述しています。
“電車に乗る目的が(鉄道マニアでなければ)電車に乗ること自体ではなく目的地に着くことであるように、科学教育の目的は科学の世界へ誘うものでなくてはならない。一方、ドライブそのものが楽しみになるように、科学はその研究自体が目標になりうるのだ”ハッカーにおいても目標と手段を区別していることが少ないように思います。Linuxの大発明はLinusの好奇心から生まれたものですし、彼が楽しくコツコツと創造性を持ちながら開発し続けていることは『それが僕には楽しかったから』に記述されています。
己と向き合う
研究ではいつも独自性(Orginality)が求められ、それが論文の質を決めるひとつの指標になります。NeuroIPSでは論文のStrength and Weaknessを評価するとき、Originality、 Quality、 Clarity、 Significanceが評価基準になるとしています。『科学者という仕事』において、以下のように個性が研究において大事であることを示しています。
“「個」に徹することで、科学で最も大切な「独創性」が生まれる。”また朝永振一郎は独創性についてこのように述べています。
“もしプリンシパルというものがあるとするなら、人と同じことはしないということだ”研究の課題を探す時や提案手法を考え出すときは、散歩をしたり、考え耽ること浮かんだりするものだなと個人的に思っていますが、それ自体自己と向き合う中で頑張って見つけ出しているのだなと思います。禅宗でよく唱えられる『白隠禅師坐禅和讃』にはこのような句があります。
“衆生の他に仏なし、衆生近きを知らずして遠く求むる儚さよ”私は仏教はどこまでいっても内向的でなくてはいけないなと思っています。修行を行うことで得られることは主に自分に関することであり、自分の生き方・考え方に通ずる言動を鍛えることだと思います。基本的に他者を変える方法を学ぶわけではないと思っています。また、ハッカーにも自己研磨の特性があると感じています。エンジニアは会社に属しても自分の技術力向上をもっとも大事にしている気がしていますし、ハッカーには自己から創造性が必須であることは『リナックスの革命』に記されています。また、『ハッカーになろう』ではこのように書かれています。
“ハッカーになるためには自分の技術をみがき、知性を働かす訓練して、問題を解決することにゾクゾクするような喜びを感じるようでなければいけません。”“ゾクゾクする”という表現が使われていますが、自分の中の好奇心を鍛え、素直に従うことがハッカーの生態であるような気がしますし、内向的に物事を考えることができる人がハッカーに向いていることを暗示しているのだと思います。
平日と休日の概念
『リナックスの革命』ではハッカーの労働倫理を、“金曜日の日曜日化”という表現で示しています。ハッカーの行動意欲は創造性であり、それに仕事中心も余暇中心も存在しないという主張です。決して労働に対して定義づけられる余暇ではなく、人生の楽しみに対して定義づけられる労働と余暇である気がします。同書ではこのように述べられています。
“ハッカーは、余暇が自動的に仕事時間より意義深いものだとは感じない。どちらの望ましさも、それがどう実現されたかにかかっている。意義ある生活という観点からは、仕事・余暇の二元論はまるごと捨てなければならない。我々が、仕事を生きているか余暇を生きているかのどちらかである限り、われわれは本当の意味で生きてさえいない。意味は仕事にも余暇にもない。活動そのものの性質から出てくる。情熱から出てくる。社会的な価値から。創造性から。”また修行僧(禅僧)には余暇どころか、休憩と修行の区別も存在しないのです。禅宗においては“すべてが禅”という言葉があるように、禅の心を常時持ち続けてこそ禅僧なのです。仏教には“常住”という言葉があります。言葉の通り、“いつもそこにあること”を指します。禅宗では、多くの生活音は心を乱すものであるとしていますし、食事の時、掃除の時、寝る時でさえ修行なのです。常住の概念を大事にしているし、禅というものがそもそもそういうものであると私は思っています。なので当然、日曜日はありませんし、日曜日だけアルコールを摂取して良いということもないでしょう。彼らにとってはおそらくですが、仕事という概念すらないのだと思うんです。また、研究者も同じような考えを持っている人を多く見ます(それがいいか悪いかは置いといて)。休日であれ平日であれ、研究を楽しんでいる様子を。『科学者という仕事』にはこのように記されています。
“研究にとりつかれた研究者は、研究室にいようが家に帰ろうが、一家団欒の食事中ですら、うわの空で考え事にふけることがありがちだ”平日や休日、労働・休暇の区別なく自分の人生で取り組むべき愛すべきことに取り組むことにたゆまぬ喜びと意味を覚える人が多い気がします。
好きと嫌いと空と無と
研究では「好き」であることがこの上ない正義とされている気がします。ノーベル賞を受賞した研究者たちは、よく“好きこそものの上手なれ”を引用して、なにかを成し遂げるためにはそれを好きでなくてはいけないと暗示しています。しかし禅にはそれすらないとも思えます。なにかを続けるのに「好き」という感情が必要なのであれば、修行僧のモチベーションは何なのだろうかと思うんです。人生に喜びを感じている人たちの源泉を鑑みると「好き」の一言で表すにはなにか物足りないし、狂うほど好きという表現もかなり違う気がします(か、もしくは本人がそれを「好き」という言葉で無理やり表している気がする)。仕事も勉強も部活も何でもかんでも「好き」と思うと同時にそれと同じくらい「嫌い」という感情もあるのだろうし、がむしゃらに生きている人は、まるでそれが生きがいであることに本人も気づいていないような、なにか不思議なものに惹かれている気がするんです。それこそが空であり無でもあるのかなと思うのです。
般若真教では“無色無受想行識”という表現が出てきます。五蘊(色受想行識)は空であるという意味をさし、自分がそれを好きか嫌いかということすら吟味する意味のないことであることを指していると思います。はっきりとは言えませんが、なにかに没頭してそれを好きか嫌いかすら考えていない状態が空である気がします。仕事が「好きでなくてはならない」が当たり前だとすると、「嫌いであればやめるべきである」ということになってしまいます。しかし何事にも様々な側面があり、それ自体が旅であり、その旅を続けることに意味を感じれば、好きか嫌いかなんてどうでもいいのではないかと思うのです。
文科省は大学等における学術研究について、“研究者の自由な発想と研究意欲を源泉として行われる知的創造活動”としています。目的も手段も明確には示されていません。「好き」という感情には目的も手段もなく、それ自体がものすごく純粋な活動源であると感じます。ハッカーたちも、こよなくコーディングと創造性の尊重を愛しているのだろうと思います。
(追記)最近すごく思うのだけど、やる意味とか考えずにひたすら黙々とできることが好きということなのだろうか...
今を生きる
「手段が目的になる」ことこそが曹洞宗の修行の考えであり、それが修証一等です。これと相反する考えに「目標到達型思考」があると思っています。目標を鮮明に設定し、またその目標を達成するための手段を精密に設定します。イチロー選手や大谷翔平選手は、この思考をもついわゆる「ビジョナリー」なのだと思います。イチロー選手は小学校の卒業文集にメジャーリーガーになることを目標とし、詳細な手段を示しています。また、大谷選手も目標へ向かうダイアグラムを若い時に作成しています。Linusさんは、TED TALKにて修証一等と目標到達型思考の違いを比較して自身の考えをうまく表現しています。
“ I am not a visionary. I do not have five-year plan. I’m an engineer. (中略) I’m looking at the ground, and I want to fix the pothole that’s right in front of me before I fall in. This is the kind of person I am. “ハッカーのPeter Norvigは『プログラミングを独習するには10年かかる』にて、皆がプログラミング言語を習得するのに急ぐことを嘆き、何事も専門技術を身につけるにはおよそ10年かかることを述べています。これらこそがハッカーの真の挑戦心であり、美徳でもあると私は思っています。研究者にもそのような文化を薄々と感じていました。森毅先生の『悩んでなんぼの青春よ』にはこのように述べられています。
“若い時に、私は科学は向かんのよとか、芸術的なことはセンスがないよとか決めるでしょう。あるいはこういう付き合い方しかできんとか、こういう人とつきあって生きていくんだとかいうふうな。そうやって決めたら、ある意味ラク。生き方のパターンは決まっていますからね。ところがその枠がどんどん自分をせまくしていく。かなり広く設定していても、だんだんせばまっくるのね。逆に、ちょっとこっちもおもろいでとかいうて変わっていくと、だんだん広がってくからね。そのかわり、不確定で不安定で、未来はさあどうなるか。それで耐えられたらそれでええと思うけどね。”博士後期課程によくある将来の不安なんていうものを、今抱いている興味への愛慕心で一掃できたら、すごくいいよねと思います。また『科学者という仕事』では、朝永先生は研究の一番の近道についてこのように述べていると記されています。
“私の自然科学の経験は、すべてのことに近道のないことを教える。一つ一つの積み重ねをたゆまず、あきることなくやっていく、それが最も確実な方法であり、それが最も速やかに目的に達する途であると私は信じている。”野望を持って希望を持って人生に歓喜をもって生きているのがハッカー、研究者、禅僧の特徴だろうと思います。今を全力で生きる。ということ目的など考えずに目の前に与えられたことを最大限にこなすのが彼らの共通点のようです。『Youth』にはこのような文章があり、まさに彼らの特性を表しています。
Whether sixty or sixteen, there is in every human being's heart the lure of wonder, the unfailing child‐like appetite of what's next, and the joy of the game of living. In the center of your heart and my heart there is a wireless station; so long as it receives messages of beauty, hope, cheer, courage and power from men and from the Infinite, so long are you young.
おわりに
目の奥がキラキラしているというのはこういう人のことをいうのかなと最近よく思います。彼らなりの人生の旅を考えてみると、こんな素敵な考えなのかと驚きます。自分もいつかこんなふうになれたらいいな。
引用